二・二六事件慰霊像(東京渋谷公会堂横)

敏 翁


目黒不動商店街を抜け、山手通りを新宿方面に進む。富ヶ谷の交差点を右折、 代々木深町の交差点を再び右折し、NHK放送センター沿いに進み、左折して 地下駐車場に入る。丁度渋谷公会堂の地下に当たる所である。
 慰霊像は、厳密には公会堂横ではなく、その隣にある法務局横のT字路の角 の所にあった。見上げる様な高さに、右手を上にあげ天の一角をを指さす変わ ったポーズの観音像が立っていた。
 これが、二・二六事件慰霊像である。

 この建立については、河野司さん達が大苦労したようで、そのいきさつの 詳細は、河野さんの本にある。
 観音像の台座の側面にはめこんだ、黒い大理石にこの像の由緒書の碑文が彫 込んである。それは歩道に直面していて時々通行人が足をとめていた。日展書 道審査員、花田峰堂氏の書である。その碑文を以下に記す。

  『昭和十一年二月二十六自未明、東京衛戍の歩兵
   第一、第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、か
   ねて昭和維新断行を企図していた野中四郎
   大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
   当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
   蹶起部隊は積雪を蹶って重臣を襲撃し、総理大
   臣官邸、陸軍省、警視庁等を占拠した。
   斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、波辺教育総監は
   此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い
   岡田総理大臣、牧野前内大臣は危く難を免れた。
   此の間重臣警備の任に当っていた警察官の
   うち五名が殉職した。
   蹶起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工
   作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが、
   二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は
   無血裡に終結した。
   世にこれを二・二六事件という。
   昭和維新の企図壊えて首謀者中、野中、河野
   両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法
   会議の判決により、東京陸軍刑務所に於て刑死した。
   この地はその陸軍刑務所の一隅であり、刑死した
   十九名と是れに先立つ永田事件の相沢三郎
   中佐が刑死した処刑場の一角である。
   この因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名
   に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者
   一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く
   記念すべく、広く有志の浄財を環め、事件三十
   年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、
   今ここにその竣工を見た。
   謹んで諸霊の冥福を祈る。
     昭和四十年二月二十六日
        仏心会代表     河野 司 誌
                 峰堂花田仁人謹書』

 この碑文も勿論縦書きであるが、上記は行も本物に合わせてある。
 上の碑文にある刑死者は、
 昭和11年7月3日  相沢三郎(昭和10年8月12日永田鉄山を刺殺)、
 昭和11年7月12日 青年将校たち15名、
 昭和12年8月19日 4名(この中に北一輝が入っている)、
 自決者は、野中四郎、河野寿である。

 尚、河野司さんは、この寿さんの実兄である。

二・二六事件慰霊像